さわやかな八ヶ岳をバックに高原のホテルの全景が映し出される。
高間と仕入れ業者の佐々木が厨房の小上がりで靴を履いたまま毛布をかぶって寝ている。その脇では亥太郎が朝食の用意をしている。冬子も一緒だ。
食堂では面川が窓を開け、景色を見ているのかどうかという面持ちで煙草を吸っている。
康雄と史朗は食器をテーブルにならべていた。そこへ大貫が入ってくる。
「面川さん。皆の手前なんですから、ロビーのほうへいらっして下さいませんか?」
「なんだい?」
「今からスタートラインに戻ったほうがいいんじゃないですか?もう1度スタートからやり直すべきじゃないでしょうか?」
「どうやり直すんだい?」
「どうって?今、滅茶苦茶じゃありませんか」
「いいよ。意見を聞かせてくれたまえ」
「しかし、私の意見であなたが動いたという印象はなるべく避けたいんです」
「だから、ここで聞こうというんだ。どの部分で君の意見に従ったか、皆に知っておいてもらったほうがいい。むこうで2人きりで話して私が何かをした。すべて君の意見に従ったって、見えるじゃないか」
「そりゃそうです」
「素直に聞くよ。いい意見を取り入れるのを恥だと思ってないよ」
「とにかく、スタートに安易な点があったことは事実です」
「そうかね?」
「そうかねって?あなたはこのホテルの特色は料理で出したいって、そう仰ったじゃありませんか」
「うん」
「その肝心のコック長が、信用できるかどうか分からないっていうのが現状じゃないですか?」
内心そうかもしれないというような面川の顔。
「シンガポール帰りの名コック長という触れ込みだが、結局あなたは、彼が作ったものを目の前で1度も食べたことがない。300万しか予算がないということを百も承知で、40万の買物を平気でしてきてしまう。そのうえ、ホテルからいちばん近い店から仕入れるというこの種の常識を破って、訳の分からない男に肉と野菜の仕入れを一括して任せてしまう。さらにそのうえ、飲んだくれて帰ってきて、朝の6時45分にようやくグーグーお休みになった。その弟子は今どうしているか?寝坊して、7時5分過ぎにベーコンエッグなんかをがたがた作ってる。この2人にしてもそうです。開業するまでにウエーターの基本を覚えさせるということで食器をならべているんじゃありませんか!彼はきびきびと格好はいいが、まるで、放り投げるように皿をならべる」
そういう大貫の顔を、康雄が一瞬見返した。
「彼はナイフとフォークをわしづかみにして、お盆にでものせればいいのに、のろのろと配って歩く」
そう言われた史朗も大貫を見やった。
「あなたはこうした目の前のことを何も言わないじゃないですか。まして、コック長にはひとことも言えない。寝坊した亥太郎君を怒りましたか?ただ黙って、窓の外を見ている。そんなことだから、まだ起きてこない子がいるんですよ。鳥居ミツですよ。いくらボイラーの技師か、エキスパートか知らないが、起床時間を守らななくて、従業員の規律を保てますか?!どうせ夕べ遅くまで、直してたとかなんとかいいわけを言うんでしょうけどね・・・」
その鳥居ミツが食堂に入ってきていて、大貫の話を聞いていた。不貞腐れたミツにかまわず大貫は続けた。
「あのサングラスだって、感じ悪いんじゃないんですか?開業してからさせるつもりがないんなら、今から取らせたらどうですか?10時のお茶にこだわるあなたが、ほかのことには甘いんじゃないですか?信用できない人間はできるだけ早く辞めてもらい、ほかの人材を探さないと、成功はおろか、開業までに駄目になってしまうんじゃないですか!偉そうなことを言いましたが、的外れなことは言ってないつもりです。ホテルを成功させたいから、あえて言ってるつもりです」
黙って聞いていた面川はタバコを消した。
「何時までやった?」
「5時よ」
「そう」
「11時には寝たと思ったがね」
「私もそう思った。しかし、また起きたんだね」
「寝たとかなんとか言われたくなかったのよ。でも、やりだしたら、やっちゃわないと気が済まないのよ」
「亥太郎君も一緒だった」
「勝手にいたのよ」
「しかし、亥太郎君も朝の5時まで一緒にいた」
冬子がスープを配っていて、そのテーブルにミツはついている。
「へんなこと考えないでよ」
「そうじゃない。亥太郎君が朝なぜ起きれなかったかを言いたかった」
「だからといって、遅れていいことにはならないでしょう」
「しかしね、徹夜でボイラーを直してた彼を叱る気はないね。自分の職域だけ守って、他のことは知らないっていう人間より、徹夜をしてでも他の人の仕事を手伝ってしまう人間のほうのが、このホテルには大切だと思うね」
「ま、その議論はあとまわしにしましょう。当面の問題はコック長なんですから」
朝から大貫にやり込められていた面川は形勢逆転を図るようにミツと亥太郎を擁護したが、高間のことを言われると、さすがに苦虫を潰すようだった。
「ほかのことはいいとしても、あのコック長のでたらめさはかばえないんじゃありませんか?」
「かばう気はないさ」
面川は大貫に背中を向けながら言った。
「しかし、かばいたいと思ってる顔をしてますよ」
「信じたいとは思ってる。今でも、半分は信じてるよ」
面川と大貫のやり取りのそばで、ミツはタバコをふかしている。
「半分は疑ってるということですね」
「確かに無断で40万もの買物をしてきたことには驚いてる」
「しかも、40万にしては包みが小さすぎる。40万の請求書を書かせて、20万の品物を持ってくるってこともありますからね」
「そこまで疑うのは軽率じゃないかね」
「いちおう疑ってみるのも、経理の仕事だと思っています」
「飲んで帰ってくることぐらいは、文句を言う気はないが・・・」
「だけど、あんな男に、タクシー代をおごられるっていうのも困るでしょ」
「どんな人だか、確かめてみないと分からないよ」
「少なくても、仕入れを任せられる男じゃないと思いますね。食料品を扱うなら、それなりの清潔さが必要じゃありませんか。それなのに、あの男はむさくるしさしかありませんね」
「確かめてみないことには、何も言えないよ」
「とにかく、いちばん肝心なことは、あのコック長に腕があるかどうかということなんですからね」
「その点については、私は信じてるとしか言えないよ。目の前でつくっているところを見ていない。しかしね、シンガポールで名コックだったっていうことは1人や2人から聞いた話じゃない」
「何人です?」
「うん?」
「何人からですか?」
「3人だ。しかしね、シンガポールで働いているところを見た人が1人入っている。東京のレストランへも3回行っている。確かに、高間さんはコック長ではなかった。東京へ帰ってきたばかりの人を、いきなりコック長にはしにくい事情があるんだと思っていた」
「そのレストランの料理はうまかったんですね?」
「旨かった」
「しかし、もしかするとそれは高間さんの手がまったく加わってなかったのかもしれませんよ」
「否。美味しいって声をかけたら、有難う」
「騙す気ならそれくらいのことは言うでしょう」
「騙すって、何のことかな?」
「このホテルのコック長になるのも、悪くないでしょう」
「力がなければ、すぐにばれることだろう」
「そのときはドロンですよ。40万の買物をして、仮に半分のリベートを取るとして悪い仕事じゃないでしょう」
大貫は面川の目をずーっと見ながら詰問するような態度だった。
「君ね・・・」
「やめてください」
いたたまれなくなった冬子だった。
「やめてください。本当に」
「ベーコンエッグ。取りに来てくれ」
亥太郎がブスっと言った。
「なぜ、彼は親父さんはそんな人間じゃないと言わないんです?」
ミツがナイフをテーブルで叩いた。
「どうした?」
「どうしたじゃないでしょ!」
「困ってるっていうから、徹夜でボイラー直したんじゃない」
「あ、そうだ」
「それはないでしょう。くたびれて入ってくれば、何時までやった?それだけ。ご苦労さんでもありゃしない。くだらないことべちゃべちゃべちゃべちゃ喋って、人の苦労なんて、なんとも思ってないんだから」
「や、分かった。悪かった。じゃ、ボイラー直ったの?」
「今頃何言ってんのよ」
「ひねれば、お湯が出るんだね」
「白けちゃうわよ。そんなこと言われると」
地下室のボイラーが稼動してる映像が入る。
「皆なにしてるの?ベーコンエッグ取りに来てくれって、言われてるんじゃないの?」
ミツは何事もなかったかのように、さらっと言い、厨房へ行ってしまう。
「ほんと」
冬子はその場の雰囲気から逃れるように。そして、皆も厨房へと移って行った。
「あんたなにやってんの?」
亥太郎は佐々木と寝ている高間の顔に水をかけようとしている。
「亥太郎さん!」
冬子が止める間もなく、水は高間にかけられてしまう。
「親父さん!オムレツ作ってくれ」
寝ぼけながら、うーんと唸る高間に言う亥太郎。
「オムレツ作ってくれよ」
「オムレツ?」
「親父さんの腕を疑ってるんだよ」
そこへ七郎とフク江が、おはようございます、と入ってきた。
「あれ?みな集まってるんですか?何かあったんですか?」
高間がようやく体を起こした。
「おはよーごぜーます」
「高間さんどうしたんですか?びっしょりで・・・。どうしたんですか?何かあったんですか」
「七郎や。こっちこい」
「皆、集まってんじゃねーか」
「皆と俺たちは違うんだ。なんにでも、首さ突っ込むんじゃね。さ、こいこい」
「おばやん。皆の中に溶け込むのも、仕事の一部だぞ」
「溶け込むこといらねーだよ。せっかく、ここで真っ直ぐ育ってきてるんだ。都会の風に染むことね。さ、こいこい」
「おばやん。皆気ぃ悪くするじゃなーか」
「おばやん」
弟子の亥太郎に濡れた頭と顔を拭いてもらっていた高間が声をかけた。
「おばやん」
「おばやんだ」
亥太郎は高間に続けてフク江を呼び止めた。
「なんだい?」
「味見してもらいたい」
「味見してもらいたい」
「うーん?」
「何の味見ですか?」
高間がくしゃみをした。
「馬鹿者!」
と亥太郎に言うが、その顔に怒気はない。
ホテルの全景に変わり、皆は何事もなかったかのようにいつものように仕事をしている。
大貫は相変わらず康雄や史朗に口じゃなく手を動かさないと日が暮れるとはっぱをかけている。
面川は複雑な気分で食器の包装紙をはがしていた。そこに高間が入ってきた。
「亥太郎。卵3個にフライパンだ」
そんな高間に顔を向けることなく、面川はなおも包装紙を折りたたんでいる。
「私が、信じられなくなったかな?」
面川の誤解を解きほぐすような笑顔で言うのだった。
「信じてはいます」
「確かに目の前で料理を作ったことはなかった」
「ええ」
「見せなきゃいけないね」
「わざわざそんなことしたくはないんですが、私もこのホテルに賭けているもんですから」
「コック長が偽者じゃ大変だ」
「偽者だなんて」
「私は偽者じゃーない」
「勿論です。勿論偽者なんかじゃありません」
「信じてくれるかい?」
「信じてます。はじめから信じてます」
「それじゃ、作ることないね」
高間は面川が自分を信じているのかどうかを試しているかのようだ。
面川は口では高間のことを信じていると言いながらも、心境は複雑だった。
「亥太郎。卵はやめた。面川さんが信じてくれた」
「高間さん!」
「え?」
「お願いします。オムレツを作ってください」
どうしてだ?という感じで自分の顔を見る高間に、面川は腰を深く折り曲げながら頼むように言った。
「そう」
「見せていただきます。申し訳ありません」
「やっぱり、信じてもらえないかね・・・?」
「信じられないようなことをしたのは、あなたじゃありませんか。断りもなしに40万もの買物をされたのでは、予算は滅茶苦茶になってしまいます」
「私は、必要な物だけ買ったんだよ」
「食器だってあるじゃありませんか。コーヒーカップもパン皿も。スープ皿も30人分。ほとんど欠けることなく揃ってるじゃないですか」
面川はすぐ後ろの食器棚を振り返りながら言った。
「間に合わせようと思えば間に合わせるがね。亥太郎。皿を2,3枚出せ」
「今のままじゃ気に入らないということでしょうか?軌道にのるまでは、今の物で間に合わせてもらいたかったんです」
「間に合わせるっていうのは、私は嫌いなんだよ。間に合わせてはいい料理はできない。しなびたじゃがいもじゃ、間に合わせるっていうのは嫌だし。悪い肉で間に合わせるっていうのも嫌だ。私の料理は、この皿ではのらないんだ」
面川の後ろでうなだれるように立っている亥太郎から皿を取る高間。
「いい料理は、いい食器でもある。私の料理は、この皿でなきゃ嫌なんだ。そういう我儘が、私の料理だと思っている。ただしね、これでも遠慮したんだよ。グラタンの皿もない。デミタスもない。前菜の食器も、デザートの皿も欲しかった。我慢したんだよ。当分は、この買ってきた皿の範囲内で、メニューを決めようと思っている。これはね、最低限度の買い物なんだよ」
面川は納得したような顔で高間の話を聞いていた。
「オムレツ作ろう」
「高間さん。結構です。私は信じます」
「そんな甘いことでいいのかね。詐欺師なら今ぐらいのことは喋るよ」
「結構です」
「そう。亥太郎。皆を呼んできなさい」
高間は面川に信じられたことで機嫌よく言うのだった。
「コック長がオムレツを作るってな」
「高間さん」
「皆も疑ってたんじゃないのかな」
「私が話します」
「あー、いい。作るところを見せよう。さ、呼んできなさい。あなたが信じてくれたら、オムレツぐらいいつでも作る」
「すいません」
面川は高間に敬意を表するように腰を折った。
「いやーね、皆に信じられないまま皆が見てる前でオムレツを作らされたんじゃ惨めだ。私はね、作る前に、あんただけには信じてもらいたかった。私は偽者じゃない」
面川はさきほど包装紙をはがしていた顔とは別人のように、にっこりとした顔で高間に頷いた。
高間は丁寧にフライパンを拭いている。
「皆の中に、オムレツみたいな簡単なものを作って、腕が分かるかって思ってる人がいるかも知れない。しかしね、西洋料理の中でいちばん使われるのは卵だ。卵ほどでデリケートで敏感な材料はない。私も短い間だったが、ホテルの調理場で働いていたことがある。オムレツは難しいんだ。オムレツが焼けるようになったら一人前と言われるぐらいだ。さっき、高間さんはしつこいほどフライパンを拭いていたんだがね、卵は匂いにも弱いからなんだ。フライパンの匂いがすぐついてしまうし、汚れがあれば焦げ付いてしまう。サラダオイルを綺麗にひいて強火にかける。卵は、強火で焼くのがコツなんだ。びくびくやってたんでは、すぐ失敗してしまう」
「面川さん」
面川は黙々とオムレツに取り掛かっている高間を見つめている皆の前で説明をしていたが、大貫が前置きはいらないのではというふうに、面川の名前を呼んだ。
「分かってるよ。余計なこと言うなっていうんだろうがね。オムレツの難しさを説明しておく必要があるんじゃないのかね。卵の難しさを分かってなければ、どんないいオムレツ見ても、なんだ。ただのオムレツじゃないかと思うかもしれない。」
「そういう人がうまいと思うことが大事なんじゃないですか?」
「そりゃそうだ。高間さんがおばちゃんに味見をお願いしたのも、失礼だけどそういう意味からかも知れないね」
有馬フク江は何をやってるんだろう?という顔で高間を見ていたが、面川にそう言われてもどういう事態なのか把握していないような顔である。
「少し黙ることにしよう。皆でしーんとして見ているのも悪い気がしてね」
「親父さんのオムレツははっきり違うんだ。塩、胡椒。それに牛乳を少し入れる。しかし俺がやっても、同じにはいかない」
「先入観を入れるのはよしましょうよ。今は、高間さんの腕が本物かどうかということを黙って見ていればいいんじゃないかな」
油が煙を上げるぐらい熱くなったフライパンに溶き卵を入れ、手際よくフライパンを振るう高間。
そんな彼を皆は凝視していた。
そこに「ふぁー」という寝起きの声が響いた。
「あ、こりゃ、皆さんおそろいだね」
むさくるしい格好の村田が毛布をはねのけ、起き上がってきた。
「ちょっと待っててくれませんか」
「は?」
「今大事なところなんで待って下さい」
「はい。弱りました。はーあ」
「やかましい」
高間と同じように村田に言う亥太郎。
「味、見てくれますか?」
最後にフライパンの柄を軽く叩きながらオムレツの形を整え終えた高間の言葉だった。
「はい」
気の抜けたように答えるフク江。
優しくオムレツをフク江に差し出す高間。
「さ、どうぞ」
「おばやん。責任重いな」
そういう七郎の言葉に軍手を脱ぎ、慣れないフォークを手に取った。
「そんなちょっぴりじゃなく、もっとたくさん。そうそう」
神妙な面持ちで焼きあがったオムレツを口にしているフク江。
「どうかな?」
「どうだい?おばやん」
「いっこも美味くねぃ」
不安そうな顔の高間。
「いっこも美味くねぃ」
「なんだって?どこが美味くないか、言ってもらおう」
「味を議論してもどうこうなるもんじゃないでしょう」
「掃除行ってもいいかい?」
立ち上がるフク江。
「ちょっと待って、おばちゃん。おばちゃんね。高間さんの名誉がかかってるんですよ」
「美味いって言えっていうだかい」
「そうじゃない。どこがどう美味くないか、それだけ聞かせてくれませんか」
「本当は美味かったよな?」
七郎は高間に気兼ねするかのようにフク江に聞き返した。
「馬鹿こけ。こら、嘘言わねーだ」
「味付けがいけなかったのかな?」
「おら、卵は好きだ」
「うん。それがどうして?」
面川は自分の選んだコック長のプライドを守るかのように、フク江の真意を聞こうとしている。
「ちゃんと焼いた卵焼きなら好きだが、これ、中ぐちゃぐちゃで」
フク江に味見を頼んだのを後悔しているような顔の高間。
「おばちゃん。オムレツはね、表面が焼き上がってて中はやわらかいというのがコツなんですよね」
やっぱりフク江にはオムレツというものを理解できなかったのかという後悔と、その半面安堵するように、高間に同調を求める面川。
「もうひとつ気にいらねーだ。おら、醤油と砂糖を使って、甘くてしょっぺーのが好きだ。これ、味ぼんやりしてて、赤ん坊にくれるようなもんだな」
フク江は、さも不味そうに残りのオムレツをフォークでかきまぜながら言った。
「卵は濃い味付けをすると、本来の味が消えてしまうんですよ」
「理屈はどうでもいいけんどもよ、不味いものは美味くねーもん」
「俺はね。俺は17のときから洋食1本でやってきたんだ」
「おごっそうさまでした」
そう言うフク江を捕まえようとする高間。それを止める皆が揉みあった。
「何言ってんだ、あいつは」
「ま、任してください」
なだめるしかない面川だった。
ベッドで熱を出したかのように寝込んでいる高間を、村田がタオルで冷やしている。
「あの、おばやんのやつ。俺の一生を侮辱しやがって」
「脳溢血になるぞ」
「あの女。ぐーの音も出ない美味いやつを作ってやるんだ」
「そうだ。その心がけだ」
「泣いて喜ぶようなのを作ってやるんだ」
「そうだよ」
「それでな、2度と作ってやらないんだ」
うなされているかのような感じで言う高間だった。
面川と大貫は各部屋の修理箇所をチェックしている。
壁紙、絨毯、ソファーにベッド。それに窓ガラスや、風呂場のカランなど細かくだ。
「外回りまで手が回るかどうか分かりせんね」
「外回りが優先だ。部屋は5つだけそろえばいい」
「どういう意味です?」
「外回りの修理を半分だけ残して、お客様を迎えるわけにはいかないだろう」
「部屋を残すということですか?」
「さしあたって5部屋だけを整備して開業する」
「部屋は商品じゃないですか」
「だからいい物を入れる。残りの部屋は余裕が出来次第整備する」
「10人の人間が食っていくんですよ。余裕ができると思いますか?」
「無理矢理でも、余裕を作るんだよ。いちいち反対しないでもらいたいね。君はけろりとしているがね、高間さんのことはどうなんだね?」
「どういうとは?」
「高間さんのことを詐欺しかなんかのように言ってたんだぞ。その判断が間違ってたことの反省かなんかはないのか?」
「あの仕入れ業者のことについてはっきりしたいもんですね」
「じゃ、高間さんの腕についてはどうなんだ?まだ偽者だと思ってるわけじゃないだろ?」
「相当なベテランだということは認めます」
「つまり君の判断が間違ってたんだ。それならそれ相応の顔をしたらどうなんだい。すぐけろっとして私の言うことに反対する。少しは、小さくなったらどうなんだい」
「判断の間違いは誰にもあります」
「だから気にしないというのかね」
「そうです」
「そうです?」
「間違ったからといって小さくなっていたんでは、言うべきこともいえなくなってしまいします」
「だが、間違ったらその分減点になるんだ小さくなって、当たり前だろう。私の判断が間違ったら、私が小さくなる。得点の多い者が発言力を強めるんだ。そして、現時点では私のがはるかに得点を稼いでいる。対等なような顔をしないでもらいたいね」
「いいでしょう、それでは今後、点のとりっこをしましょう。私のが得点多かったらでかい面しますよ」
「ああ、いいとも。しかし、今はこのバケツを下に片付けてきたまえ」
面川は大貫をからかうようにバケツをさしながら言う。
「片付けてきたまえ」
「いいでしょう。しかし、5部屋で開業だなんてことは、絶対、反対ですよ」
「聞いておく」
大貫は馬鹿丁寧に頭を下げ部屋を出て行った。
面川はしてやったりと勢いよくドアを閉めた。すると、そのドアが外れ倒れてしまった。
「これも修理か!」
夕暮れの八ヶ岳が映し出され、やがて夜のホテルの外観へ。
小さな日記に綴られた 小さな過去のことでした 私と彼との過去でした 忘れたはずの・・・
暖炉の前で史朗と冬子が歌っているところに面川がやってきた。
「どうぞ」
「いいんだ。康雄君はどうした?」
「え・・・」
「喧嘩でもしたのかい?」
「ひがみっぽいんです。あいつ」
「あら?喧嘩したの?」
「喧嘩ってわけじゃないけど、俺がこの人とちょっとし話してると、すぐすねちゃって」
「妬いてるな」
「困るわ、私」
「いいんだよ。勝手に妬いてるんだから」
「だって、私、別にあなたのこと・・・」
「ほっとけばいいんだよ、あんな奴」
「あぁ、これ以上もめごとふやさないでくれよ」
「今きますよ」
「有難う」
「皆に集まってもらうからね」
「はーい」
フク江の肩をもんでいる七郎が面川の呼びかけに応えた。
「なにやるんですか?」
「ちょっと皆に聞いてもらいたいことがあってね」
皆があっちこっちから集まってきた。
「えー、楽にして聞いてもらっていいんです。食事のときに話せばよかったんだが、日にちがもうひとつ決められなくて今になってしまいました。実は、しや明後日、開業することにしました」
皆は驚きの顔で面川を見上げた。
「しや明後日?」
「早すぎると思うが、皆のおかげでここまでの工事は終わった。明日大工さんが来てくれる。我々の手に負えない所を直してもらう。しかし、小さな修理は平行してミッチャンの指示で、史朗君と康雄君にやってもらう。七郎君は大貫さんを乗せて、買物に行ってもらう。足りないものを2人で1日かけて買物をしてきてもらう。私は東京へ行って来る。季節が悪いからすぐさま効果は出るかどうか分からないが、お客様になってくれそうなところを1日かけて歩いてみる。足りないものも東京で買い物を済ませてくる。明後日は主として、壁紙の張替えとペンキ塗りをやる。部屋の整備はしや明後日の朝。午後からなら、お客様を迎えることができると思う。とにかく、1日でも早く開きたい。開業しなければ、予算は減っていくばかりだ。無理はあるだろうが・・・。初めて来るお客様にあわてて準備したという印象を与えたくない。部屋は、BCEFHの5部屋だけだ。あとの4部屋は収入があり次第整備していきたい。それをお願いしたい。何か質問はないかい?」
「はい」
大貫が手を上げた。
「君とは十分に話し合ったからもういい。他にないかい?」
「しや明後日というのは初耳です」
「そりゃそうだ。今決めたんだから。実は、高間さんのほうの準備が問題だった。普通なら仕込みは5日間は欲しい。しかし、高間さんはもうすでに仕込みを始めてくれていた。しや明後日のディナーに十分間に合うと仰ってくれた」
「料理はそれでいいでしょう。しかし、問題は部屋の準備じゃないですか?聞いていると、いかにも滑り込みセーフのようですが、予定は必ず狂うものです」
「狂わないようにする」
「初めてのお客様の印象は大事なんじゃないんですか?」
「勿論だよ。こういう小さなホテルは、口から口へと評判が広がっていくしかないからね」
「だったらあと2日遅らせるべきです。皆の訓練もまだ行き届いてないじゃないですか!」
「それを、これからやるんだ。今日から3日間で基本的なことを覚えてもらう。康雄君はホテルにいた。冬子ちゃんは食堂にいた」
「はい」
「ま、まったくの素人ばかりじゃない。君だって、ずいぶん勉強してきたんだろう」
「制服はどうするんですか?」
「勿論それはね、はじめは蝶タイとエプロンで間に合わせる。エプロンはおばちゃんに頼んであるんだ。間に合いますよね、おばちゃん」
「いいよ」
「とにかく、目標はしや明後日だ」
「しかし、考えてみれば色々と・・・」
「いいかい!気が緩むから言いたくなかったんだが、君が口を挟むようだから言おう」
「なんですか?」
「しや明後日の開業日にお客様が来る可能性は、90パーセントない」
皆が面川を再び見詰め直す。
「しかし、目標はしや明後日。1人か2人か分からない。お客様は私が、きっと連れてくる。頑張ってもらいたい」
物音がして皆が振り返った。
「今晩は。驚くことはなかっぺ。おらーどれくれーいい材料か、見てもらおうと思ってよ」
仕入れ業者の村田がビニール袋に入れた肉を高間に見せるのだった。
村田は高間と酒を飲んだのだろうか?酔いながら感激している。
「おらー、嬉しい。皆がおらの材料を見る目を認めてくれたのが、おらー、嬉しい」
「分かった、分かったよ今度から玄関からでなく、こっから入って来るんだぞ」
「分かってるよ。おらにだって、常識ってもんがあるんだ」
亥太郎に村田を見送るように言う高間。
「なかなか材料を見る目があるみたいですね」
「まだまだだが、真面目なところがあるのがいい。仕込めば、いい商人になる」
そんな高間に、にっこりと応える面川。
「お休みなさい」
「お休み。あんたも早く寝なさい。亥太郎は勝手に帰ってきて寝る」
面川が他のところにいる大貫に声をかけた。
「どうしたい?」
「いえ。もう、寝ようと思って」
「1杯飲んだらどうだい?いけるの知ってるよ」
「いいえ。あなたが禁酒してるの知ってます」
「私ならいいんだ。そばで飲まれたぐらいでぐらぐらしない」
「とにかく、一方的にやられっぱなしでした」
「うん?」
「あの男だけは胡散臭いと思っていましたが、彼も信用できるとなると、私の判断はいいとこなしです」
「気の弱いこと言うじゃないか」
「正直言って、たかをくくっていました」
「なにを?」
「社長のお嬢さんのご亭主ということだけでこういうホテルの支配人としての能力はないと思っていました」
「多少はあるかね?」
「多少はあります」
「光栄だね」
「こういうときに意見を言うのは勇気がいります」
「ま、思ったことはどんどん言ってくれ」
面川は椅子の背にもたれて大きな伸びをしながら応えた。
「では、反対されるのを承知で言うんですが」
「もう言うのかい?」
「今までのハイランドホテルとうのはあまりいい名前じゃありません」
「うん」
「明日東京へいらっしゃるんなら、今までの名前じゃないほうがいいと思います」
「私もそう思ってた」
「本当ですか?はは。初めて賛成されたな」
「どんな名前がいい?」
「誰にでも分かる。イメージのはっきりしたものがいいと思います。洒落た感じも必要でしょうが、カタカナの名前だとすぐ古臭くなったり、安っぽく響いたりすると思うんです」
面川は大貫の顔を食い入るように見詰めている。
「それで?」
「ここは八ヶ岳の高原なんですから、それをはっきり謳うほうがいいと思うんです」
「だから、なんてつけるんだい?」
「芸がないと思われるかもしれませんが」
「前置きはいいよ」
「どうせ反対なんでしょうが・・・、八ヶ岳高原ホテルにしたらどうかと思ってます」
「私もそう思った」
面川が素直に応える。
「いい加減なこと言わないで下さいよ」
「いい加減なことで言えることじゃないだろう」
面川はははと笑った。
「意見の合うこともあるんだな。これからも、君の意見に従うこともあるだろう。ま、せいぜい、やりあっていこうじゃないか!」
声高に笑いながら部屋に戻って行く面川の後姿に、大貫は狐に化かされたような顔だった。
照明器具を取り付けたりシーツのアイロンがけ。料理の仕込みの光景。面川の東京での姿。
夜。面川のいないホテルでは皆が集まっている。
「やめてください。それなら、やめます」
皆の拍手を受け萎縮してしまう冬子。
「さ、言ってごらん」
「よくないんです。よくないから面川さんが帰ってくる前に皆に聞いてもらって直してもらおうと思ったんです」
「直してあげるよ」
「難しいよね。パンフレットの文章なんて」
「私、初めてだから。ごめんなさい。ミツさん」
「別に」
「いいですか?おばちゃん」
「気にしなくていいよ」
「じゃ、ちょっと読みますけど。あの、写真でね八ヶ岳の下にこのホテルがあって、私の文章は空の部分にあって、裏側にはここまでに来る地図とか値段とか具体的に書いてあって、そういうパンフレットがそうです」
「なるほど」
高間が言うと、史朗が拍手した。
「じゃ、読みます。街がたまらなく嫌になったら、高原へいらっしゃい。自分の顔が嫌になったら、高原へいらっしゃい。あの人のことを忘れたかったら、もう1度20才になりたかったら、高原へいらっしゃい。効き目はないかもしれないけど、同じ仲間がホテルにいます。ホテルは丘の上。ホテルは人。ホテルは灯火。ホテルはあなたを待ってます。これだけ」
皆はそれぞれに何かを思い浮かべているような顔で、冬子の声に酔いしれているようだった。
「えー、なるほどね」
史朗がまた1人拍手した。
「どうかしら?」
「いいよ。凄くいいよ」
「遠慮なく言わせてもらうと、ちょっと偏りすぎてるんじゃないかな?ん。ここに来る人は都会がたまらなく嫌になってくるとも限らないし、誰かを忘れたいとか、自分の顔が嫌になったからとか20才になりたいとか・・・。そういう人はむしろ少なくて、もっと気軽な人が多いと思うんだ。新婚旅行で来る人もいるだろうし」
「いい詩だと思うんだけどな」
「宣伝文句を考えてるんだろう?」
「お前ね。突っかかって気を引こうって気持ちは分かるんだけどさ」
「どういう意味だ!それは?」
「まぁまぁ。宣伝文句としてはもう少し考えたほうがいいと思うが、しかし、しかしだね。この可愛い、悩みごとなどまったく何もない明るい冬子ちゃんがだね、こんな誌をよく書けるもんだね」
そういって、高間は史朗と康雄をなだめるように言うのだった。
「冬子ちゃんは、何かな?自分の顔が嫌になると思えないから、あ、あの人のことを忘れたい口かな?」
「私・・・」
「高間さん!過去のことについては触れないようにしたほうがいいんじゃないですか?」
「あ、そうだったな。お互いに」
冬子は誰かのことを思い出しているのだろうか?そんな表情をしている。
夜汽車の中では面川がメモしている姿。七郎は大貫とジープで走っている。
高間は小話をしている。皆が笑っているところに電話が鳴った。
「もしもし。は?はい。八ヶ岳高原ホテルでございます。はい。予約?予約でございますか?」
予約?と呟く高間の声に皆が電話を聞いている康雄のほうを見た。
「はい、小淵沢で乗り換えて。はい。はい、小海線です」
ついに客からの予約が入り、皆はどよめくのだが・・・
第1話 星も見えない東京へ帰りたまえ!
タクシーに乗せた客を見送るホテルのドアボーイ。
そして、寒い夜空を物憂げに見上げる高村康雄の顔にはやるせない表情が。
デパートの食堂で客に文句を言われながらも忙しそうに接客する北上冬子。
チンピラに殴られているところを助けられた小笠原史朗。
それに無愛想な鳥居ミツを加えた4人が野辺山の駅に降り立ったのは3月のことだった。
4人はお互いの素性を知らずに終点でバスを降りるが、ホテルらしきものは見当たらない。
「ハイランドホテル?」
「えー。ここから歩いて15分て言うんだけど」
「そんなホテルはねーな」
「ないって、地図まで書いてもらってきたんだから、ないってはずは・・・」
「スカイラインのほうなら観光ホテルがあるけどよ」
「それ以外に本当にホテルはないんですか?」
「しらねーな、そんなホテル」
そんなバスの運転手とのやり取りで不安を覚えた史朗。
康雄はさきをいく女にハイランドホテルへ行くのかと聞き、そうだと言われると自分はそのホテルで働くからと荷物を持ち、早くもホテルマンらしい態度になるのだった。だが、あわてて追ってくる史朗に、ホテルなんてないってよと言われてしまう。
康雄はもう1人の女鳥居ミツを追いかけ、史朗から聞いたことを話す。
「あんたも面川って人からお金もらった?3万円?むこうにも2人いるんだけど同じなんだ。高原のホテルで働いてみないかって言われた?12万も使って俺たちを騙すっていうのもおかしな話だよね」
まだ雪が残る山道を康雄が駆け登っていくと、丘にはホテルらしきものが・・・。
「5,6年は営業してないって感じだな」
「まるで化け物屋敷だな」
そんな雲の巣だらけで廃墟に近い建物の中に入ると、高村と同じように面川に誘われた老人と若者がいた。
だが、かんじんな面川の姿が見えない。
老人は康雄たちにコーヒーを勧めた。
「はじめから本当のことをお話すればよかったのかもしれませんがが、この有様では・・・。とりわけ若いお嬢様方はきてくれなかったでしょう」
思わせぶりに、ようやく2階から降りてくる面川の言葉だった。
そして、
「ここは6年前に2ヶ月だけ営業したが、とても先行きが見えないということで閉じてしまった。お金持ちの道楽のためのホテルでしたが、借金の抵当で持ち主が転々とし、誰も営業を再開するものはいなかった。スケートもスキーもできない。ハイキングや登山コースからも外れている。でも唯一いいところは八ヶ岳の風景をしょっている。だが、それも2年前ほぼ東の5キロ先に観光ホテルができて、その魅惑も軽減されてしまった。そこはスカイラインからも近く、駅からタクシーを使っても600円でくる。ここはそもそもタクシーはこない。ジープでないとね」
「嬉しそうね」
サングラスをかけている鳥居ミツが皮肉をこめて言う。
「なんだって?」
少しむくれ気味の面川はすぐに笑みを浮かべながら
「そう。そう思われるかもしれない。ある製鉄会社の社長が13年のホテルマンとしてのキャリアのある私にやってみないかと言ってきた。これだけの悪条件がそろってるホテルを再建してみないかとね。私はやりますと答えた。男なら誰だってそう思うんじゃないのかね」
「男になりたくて、私たちを騙したってわけ?」
ミツは楽しそうにしゃべる面川に吐き出すように言った。
「騙したわけじゃない」
「なにもかもそろって繁盛してるって言ったのは誰よ?」
「私はこの土地を皆に見てもらいたかった。1人1人。これはと思って選んだ人たちだ。仕事をしてもらいたいと思った有能な人たちだ。この建物を見てもらいたかった。それまでは手段を選ばなかった。しかし、今はなにもかも曝け出す。この建物も、この場所も見て。これから私が話す条件を聞いて、なおこの土地で働く気がないというなら、遠慮なくお帰りいただいていい。勿論、差し上げた3万円はそのまま差し上げる。皆さんは自由だ」
2階から皆の前に出てきたときの颯爽とした姿は微塵もない面川だった。
「条件ていうのは給料のことですか?」
時には語気を強めて話す面川に、康雄が聞いた。
「給料は一律20万払うと言いたいところだが、予算は300万しかない」
「300万・・・」
といかぶる老人の高間。
「300万。なにもかもひっくるめて300万。これでできるかと聞かれた。ガラスや戸を入れ替える。壁にペンキを塗るだけで100万はかかる。私は試されてると思いました。この社長は私の能力を試そうとしている。ここで成功させれば、都心の大きなホテルを任せようかという途方もない目論見があるのかもしれない。やりましょうと答えました。引けない気持ちでした。そして、この仕事が成功して飛躍することができた時は、協力してくれた人達と一緒に全員で飛躍しよう。全員一緒に幸せになろうと」
自信満々で言うのだった。
「いくらで働けって言うの?」
「働けじゃない。働かないかと言ってるんだ。300万しか持たない男が経営者のような顔はできない。はじめは小遣い程度のものしかお支払いすることはできない。しかし、ホテルが潤い始めたら、その利益を全員で分けるんだ。この廃屋のような建物を素晴らしいホテルにしよう!訪れた人が、いつまでも、甘い思い出にできるような高原のホテルにするんだ」
「小遣い程度っていうのは、いくらのことかしら?」
「3万円だ」
あっさり言う面川にミツが畳み掛ける。
「綺麗なことをならべて私たちをまるめこんで、3万円で働かせようっていうの」
「サングラスをとりたまえ!サングラスをとりたまえ!」
怒りながらの命令口調だった。
「私の目を見たまえ!私の目を見たまえ!」
皮肉っぽいミツはおどおどしながら面川の顔を見る。
「私は言ったはずだ。君たちは自由だと言ったはずだ。嫌なら帰りたまえ!排気ガスと、満員電車と、コンクリートの東京に帰りたまえ!星も見えない東京へ帰りたまえ!そこに生き甲斐があるというなら、帰りたまえ!ここにははっきりとした目標がある。すばらしいホテルを成功させようという目標がある。皆で力を合わせる。成功した暁には君たちに利益配分を約束している。素晴らしい土地で、緑のなかで、八ヶ岳を朝な夕なに見て、素晴らしい高原のホテルを築きあげるんだ。それがつまらないと言う人を、私は無理に引き止めない。帰りたまえ!蒲田の工場のほうがいいと言うなら帰りたまえ!」
ミツに、時には強く、時にはやさしく言うのだった。
「勿論帰ってもらいたくはないんだよ。1人1人かけがえのない人達なんだ。そう思って私が選んだ人達だ。ここで思う存分力を振るってほしい人達ばかりだ。しかし、私は強引に引き止めたくはない。君達の気持ちを大事にしたい」
そういって、1人1人を見つめる面川清次だった。
コックの高間麟二郎とその弟子の服部亥太郎。
少し神経質なところがありそうな高間康雄。
美人だがどことなく翳のありそうな北上冬子
ひょうきん者の小笠原史朗。
そして、ぶっきらぼうな鳥居ミツ。
そんな6人はそれぞれの事情を抱えている。
「申し上げることは申し上げた。皆さんは自由です」
黙りこんでしまう面川だった。
「俺、どうせここじゃお金遣わないから」
「やってみようじゃない!」
「私もやります」
「全員残るんだね。帰る人はいないんだね」
ようやく笑顔になる面川だった。
地元から杉山七郎と有馬フク江が駆けつけた。
面川が皆を必要以上に持ち上げながら紹介してると、ミツは自ら名乗った。
「私は鳥居ミツ。ここに残ったのはあんたの話でじゃないわ。東京に帰るのが面倒になったからよ。東京に戻りたくないからよ」
それぞれが与えられた部屋に行く。
「やーよくしゃべる男だな。お前と反対だな」と言いながらも荷物を放り投げる亥太郎に、高間はもう1度やり直せと小言を言う。
ミツは冬子に2段ベッドのどっちを使うかと聞かれ、どっちでもいいわと突き放したように言っている。
「あんた。気がいいほうか?」
「なんだそれ?」
「人はいいほうかよ?」
「池袋でバーテンやってたんだぜ。人がいいばっかりで勤まらないさ」
「俺は気がいいんだ。抜けちまうんだ。またぞろ馬鹿な目に遭いたくないんだ」
「どういうことだ?」
それまで煙草を吸いながら気のない返事をしている史朗が心配げな康雄に聞き返した。
「あいつ。本当に信用できるか?」
「え?」
「騙されるんじゃないだろうな?俺たち」
「どうして?」
「騙されてここまできたんだ。繁盛してる素晴らしいホテルだっていってな」
「あぁ」
「このさき騙さないってことないだろう」
「そりゃそうだけどさ」
「口がうまいから乗せられちまったけど、あいつ。本当に社長に見込まれたやり手なんだろうな」
「おかしいとこあるか?」
「ない」
「そんなら・・・」
「だけど、なんだか芝居してるような感じがしないか?」
「あぁ」
「本当のやり手はやり手には見えないもんだ」
「そう言われると・・・」
「調子のいい奴には何度もつまらない目に遭わされてるからな。そうそう信用するわけにいかないんだ」
「俺だってそうそう信用してるわけじゃないけどよ。うん。そうだな」
真っ赤なカーデンガンを羽織り「おっ、皆着替えたな。とりあえず調理場から掃除しよう。高間さんに今夜の食事をつくってもらわないとならないからね」と、2階の階段を下りながら言う面川は颯爽としている。
そんなところに、大貫という男が現れた。
夕食も終え、掃除の終わったロビーで史朗のギターに合わせ冬子が歌っている。
「可愛いね」
高間が和やかに言う。
「開店してからもロビーで誰かがギターを弾いて誰かが歌うっていうのはいいですね」
面川も満足そうに言った。
「誰かじゃなくて、冬子ちゃんがいいな」
「七郎や。けーるだ。8時まわっただ」
「8時まわったっていいじゃねーか」
「1人でけーれって言うだか」
「そりゃ送って行くけど、なんだか雰囲気からけーりずれーな」
「こんな夜はこれからいくらでもあるさ」
地元で雇った有馬フク江と杉山七郎に言う面川。
「んじゃ、名残惜しいけどまた明日」
「あ。明日から作業着できてくれるね」
ホテルなのでどうしようかと迷って着てきたスーツを、明日は普段着で来ると言う七郎だった。
その傍らでは大貫がまだ食事をしている。
「おばやん。きーつけねーと転ぶだろ」
「高原だね。外の声で、空気の澄んでるのが分かる」
高間は静かな外の気配をうかがうように言った。
「大貫さん。どうですか、高原は?」
「久しぶりですね」
「いや。大貫さんに来ていただけるとは思わなかった。大貫さんはこのホテルのオーナーの会社の人で経理課で係長をしてるんだが・・・」
「いーえ。3月1日で課長になりました」
「社長が目にかけてる人でね。自宅にもよく見えてましたね」
「いえ。使い走りです」
缶詰を食べながら義務的な口調の大貫。
「実は予算の300万なんだが、今日、大貫さんが持ってきてくれた」」
食事を中断して面川を見つめる大貫。
「下の銀行へまだかまだかと催促してたんで、やきもきしてたところなんだ。大貫さんが届けてくれるとは思わなかった」
皆に説明するように言う面川。
「私はまだ300万円をお見せしていませんよ」
「そりゃそうだが」
「ちょっとお話があります」
大貫は、なんなんだこの人間は、という顔で面川に言った。
「君は持ってきたんだろ?確かに・・・」
「2階に行きましょ」
「君は持ってきてないのか!」
2階に上がる大貫。
「2階でお答えします」
「どうしてここで答えられないんだ!」
怒鳴りつけるよう言う面川は大貫を追いかけて2階に上る。
それを黙って見守る皆。
「こういうことがあるんじゃないかと思ってたよ」
「どうなるんだ?金がなかったら・・・」
3万円もらってるんだから早いうちここを出ればと耳打ちする康雄に、使ってしまったと言う史朗。
2階では大貫が旅行鞄の中からブリーフケースを取り出している。そして、ベストの内ポケットから鍵を出して開けた。
「なんだ。あるじゃないか」
「現金ですよ。面川さん」
「社長らしいやり方だよ。300万しかないということを頭に叩き込んでおけということだろう」
安心したものの沈んだ顔で面川が言う。
「金庫のない山の中で皆に300万円の現金があるというのを、皆の前で口に出すのはは軽率です」
「あのなかに泥棒でもいると言うのかね?」
「いないと言えますか?」
「ま、いいだろう」
「予算が300万しかないということも従業員に伝える必要はないことですね」
「ろくな給料も払えないんだ」
「とにかく金銭の管理は私がいたします」
「なんだって?」
「辞令を受けています。軌道に乗るまでは私がここにいます。宜しくお願いします」
「俺を信用できないって言うのか!」
それまでのミステリアスなフラメンコギターのBGMをかき消すような大声だった。
下のロビーにいる皆が2階を見上げる。
「信用されないことを、あなたはなさってるでしょ」
「いいだろう」
鬼のように大貫に詰め寄っていた面川はさっと態度を和らげて言った。
「経理を1人雇ったと思えばいいんだ。しっかり頼む」
そうは言うものの、面川の内心は煮えくり返っている。そして、部屋を出て階段の手摺でうなだれてしまう。
皆はそんな面川の顔を見上げて呆然とするのだった。
「あ。心配しないでくれ!現金じゃなくて小切手なんだ」
階段を下りてくる面川。
「経理を見るものがいないんで、彼に頼んだんだ。いや、ベテランなんでね」
「改めてお願いします」
大貫が皆に向かって言う。
「しかし、会社に勤めてる人をそんな簡単に引きとめられるんですか?」
「うん。明日社長に電話すれば90パーセントいいって言ってくれると思うんだ」
「フロントをやらせていただきます」
「なに?」
「フロントについていささか勉強してきました」
「いいんだ。君は裏で帳面を見てくれれば」
「キャッシャーも勤めてフロントをやるのが無駄のないやり方じゃありませんか」
「フロントは誰よりもお客様と接する機会が多いところなんだ。フロントはね、ホテルのイメージをかなり決めてしまうところなんだ」
皆に相槌を求めるような感じで言う面川。
「承知しています」
大貫は面川や皆が唖然としているなか平然としている。
「いや、承知していますって、君。このホテルはね、君。高原の甘ーい雰囲気を大事にしていきたいんだよ。ま、率直に言って、君がフロントにいたんじゃ甘ーい雰囲気っていうわけにはいかないんじゃないかな」
「甘い雰囲気になるように心がけます」
「若い女性がね、洒落た高原のホテルに来たんだと思えるような洗練された雰囲気にね」
フロントなど似合うわけないだろうと言わんばかりに面川は大貫を説得しようとするものの、大貫に動じる気配はない。
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Author:mounthiker
田宮二郎さん大好き
